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かんな秋のアート祭りに際して

神流川の流域――かんなで喜びに出会う

わたしたちは「第10回かんな秋のアート祭り」を、鬼石・神泉に住んでいる、住んでいた、あるいはこの地に拠点をおく芸術家の作品と、鬼石・神泉で行われている芸術活動を紹介するよい機会だと考えています。

というのも、ここ鬼石・神泉は芸術家が不思議と引き寄せられ、芸術が静かに息づく場所だからです。

芸術家がなぜこの地に引き寄せられるのか、なぜ芸術が育まれるのかを、訪れる人、住んでいる人に感じてもらいたいからです。

それには、外から芸術家を招待して展示発表の場としてもらうよりも、この地に引き寄せられて生まれた芸術、この地に育まれて生まれた芸術を、生まれたこの地で観てもらう方がよいのではと考えました。

芸術が静かに息づくこの地のよさが何なのかについては、展覧会を見た人それぞれに感じ、考えていただくとして、ひとつ言えるのは、ここは、何かをかたちにあらわしたい、あらわしてしまうという “つくる喜び” がのびのびと発揮される場所だということです。

ところで、美とは、何でしょう? 陶芸家の河井寛次郎は、美の正体について「ありとあらゆる物と事との中から見付け出した喜」としています。ものごとにはそれぞれ固有の美しさがあり、こちらの都合とは関係なく、そのものが必然的にそのようにあることが美しいというわけです。 “在ることのよさ” に気づくことが美を感じるということなのでしょう。何の役に立つのかわからないけれども “よい” という戸惑いのようなもので、そのとき美を感じた人の中には利害的興味関心とは異なるセンサーが働いているのだと思います。

だとすると、つくる喜びとは、見付け出した喜びをかたちにあらわす喜びのことで、それが美術(芸術)の動因であり、また根幹をなしているのではないでしょうか。

「かんな秋のアート祭り」で作品を鑑賞するにあたっては、ぜひ “喜び” に着目してほしいと思います。

そこに喜びはあるのか、あるとすればどんな喜びなのか。

(喜びが損なわれた状態を癒す行為、つまり喜びの回復もまた喜びです)。

その際に大事なことは、喜びのセンサーは美しさと同様、見る人それぞれに固有のものだということです。観たものの判断として、芸術的に見えるかどうか、有名かどうか、市場価値があるかどうか、役に立つかどうか、SNS映えするかどうか、自己アピールが強いかどうか、新しいかどうか、わかりやすいかどうか──などではなく。

つまり誰かの目ではなく、自分の目でみてほしいのです。

そして慌てずにゆっくり感じてほしいのです。

自分の外にある “よさ” が、自分の中にも “よさ” としてあらわれるのを。

すると、芸術を体験した後で、ものごとが違って見えるかもしれません。

今まで見落としていたもの、気づかなかったもの、この地のよさ。

そこに “在る” ものを “生かす” 視点でもう一度見ること。

それが芸術の種です。

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